「朝鮮学校の生徒たちは澄んだ目をしている」漢字変換版

原典:http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20100330#p1
lever_buildingさん著
やねごんの にっき ― 「ちょうせん がっこうの せいとたちは すんだ めを している」より

漢字かな混じりに変換した文を公開してもよいと筆者から許諾をいただいたので公開してみます。
ただし漢字はほぼ私の想像で当てはめているので、筆者の想定していた漢字とは異なる場合があります。
またタイプミスなども無いよう努めてはおりますが、保証は致しかねます。
正確な内容はあくまで原典を直に参照してください。

朝鮮学校の生徒達は澄んだ目をしている」



 先週の土曜日に「『高校無償化』からの朝鮮学校排除に反対する緊急行動」に行って参りました。


http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20100327/p1


http://www.mkimpo.com/diary/2010/chosun_hakkyo_10-03-27.html


 代々木公園で集会を行った後、渋谷駅に向かってデモを行いました。

デモには朝鮮学校・挑戦大学の学生さんを始めとして800人くらいが参加したらしいです。大盛況でした。




 さて、集会では朝鮮高校の生徒さんやその保護者の方のお話を聞くことができたのですが、私はある教職員組合の人の発言の一部に強い違和感を覚えました。この人はいわゆるフツーの日本の学校(=日本政府の支配下にある学校)の先生で、朝鮮学校との交流にも取り組んでおられるとのことでした。

 で、この先生は朝鮮学校の授業を見学させてもらったりしているそうなのですが、私が違和感を覚えたのは彼が次のような言い方で生徒たちを「褒めたたえて」いた事です。

 曰く、朝鮮学校の教室で授業を受けている生徒たちは皆「目が澄んでいる」と。

 まるで植民者が原住民をロマンティックに称えるときの表現のようで、かなり気持ち悪いです。

 もちろん、この先生は立派な取り組みをなさっていると思いますし、この発言が善意からなされていることを疑うわけじゃありません。また、私がこの文章を書いているのは、この先生個人への非難を目的にしているのでもありません。

 ただ、マジョリティが マイノリティを 「支援」しようとする場合に生じがちな危うさが、この発言に現れているように思います。

 この「目が澄んでいる」という「評価」は、「先生」と呼ばれる立場にある人が抱くひどく身勝手な「望ましい生徒」イメージに他なりません。「先生」に敵意や悪意を向けず、素直でコントロールしやすいということが、「目が澄んでいる」という「評価」の意味するところでしょう。「目が澄んでいる」ことをさも良いことであるかのように考えてしまう先生にとって、従順で自分に向かって決しては向かってこない生徒が「良い生徒」なのでしょう

 ここに既に教室で先生が生徒に対して日々加えている抑圧の一端が現れていますが、さらに取り上げなければならないのは、こうした発言がマジョリティである日本人によって朝鮮人に対して為されていることの問題です。いわば、日本人が「こうあって欲しい」と望む「朝鮮人」イメージが、この「目が澄んでいる」という言葉に顕になっているわけです。健気で日本人に敵意を持たない、あくまでも「かわいそうな被害者」としての「朝鮮人

 「かわいそうな被害者」に手を差し伸べるのは随分と心地よいものです。「自分は善いことをしている」「自分は良い人間だ」という気分に浸れるのですから。朝鮮人が「かわいそうな被害者」を演じる限り、心ある日本人は喜んで支援の手を差し伸べるでしょう。

 しかし、この朝鮮人が「澄んだ目をしたかわいそうな被害者」であることを止めたとき、この日本人は手のひらを返して自分たちを攻撃してくるのではないだろうか?

 マイノリティであるということは、こうした恐れをマジョリティに対して抱かされるということではないかと想像します。その意味でマジョリティがマイノリティに対して「目が澄んでいる」事を褒め言葉として使うことは、同時に相手に対する脅しとしても働くのではないか?

 「君たちが私たちに敵意を示さないなら、私たちは惜しみなくてを差し伸べよう。しかし、君たちが澄んだ瞳をした被害者を止めるならば、その限りではない」と。



 集会では、先にも述べたとおり、朝鮮高校の生徒さんたちのお話を伺うことができました。その中で私の印象に残ったのは、「朝鮮学校は日本の学校と変わらないのだから、朝鮮学校を無償化の対象から外さないで欲しい」という意味の発言を何人かの方がされてたことです。また、「朝鮮学校の私たちも日本学校の生徒と同じように授業を受けたりスポーツに励んだりしている普通の高校生です」という発言もあったと記憶しています。

 このように「自分たちは無害な存在だ」という「弁解」を挑戦高校の生徒さんたちに押し付けているのが何なのか、日本人は考えるべきでしょう。この問題は、今回の集会・デモに参加したような日本人たち――朝鮮学校を「支援」したいと思っている日本人たち――にとっても、決して無縁ではないと考えます。もちろん私自身も含めて。だから、先の「目が澄んでいる」という発言を批判的に取り上げたのです。

 そして、そもそも、「日本学校と変わらない」ことを朝鮮学校の生徒たちがアピールせざるを得ないというところに、ひどい捻れがあります。朝鮮学校を無償化の対象に含めるかどうかの議論において、日本学校が判断の基準になるなんてちゃんちゃらおかしいでしょう。

 まず、歴史的に見て、敗戦後に「民主主義国家」(←ここ笑うとこ)として再出発した日本の学校教育制度が、朝鮮人たちの自律的/自立的な民族教育への弾圧とワン・セットであったし、今もあるという点を、理解する必要があります。

 1948年4月24日夜、メノア神戸基地司令官は神戸基地管内に非常事態宣言を発し、これより国警(国家地方警察)兵庫本部および神戸市警察は神戸基地憲兵司令部の指揮下に入り、即座に朝鮮人の一斉検挙作戦を開始した。憲兵司令部および日本警察は、以後4日間に朝鮮人約2000人を逮捕、同時に神戸の東西両端を封鎖、須磨・平野・西宮などの国道沿いに検問所を設置し、神戸市内に入る朝鮮人も一人残らず検挙した。……

 この非常事態宣言発令のそもそもの発端は、日本政府による朝鮮人学校への閉鎖命令にある。

 「解放」を迎えた朝鮮人は、日本各地に朝鮮人児童の国語教育のための講習所を開設、その後これらの多くは朝連[在日朝鮮人連盟]のもとで「朝連初等学院」として統合・整備され、1948年2月の時点でその数は500校を数え、そこには約5万人の朝鮮人児童が就学していた。だが、47年3月の教育基本法・学校教育法の公布・施行を受けて日本政府は朝連経営の朝鮮人学校の統制を強化、48年1月24日には「朝鮮人子弟であっても、学齢に該当する者は、日本人同様、市町村立または私立の小学校または中学校に就学させなければならない」とする文部省学校教育局長通達「朝鮮人学校の取扱について」が発せられることになる。これに従って48年3月18日には山口、同年4月20日には東京、ほかにも兵庫、岡山などで朝鮮人児童の公立・私立学校への転入と、認可によらない朝鮮人学校の閉鎖、また日本の学校から借用していた朝鮮人学校施設の明け渡しを求める学校閉鎖令を発した。

 この学校閉鎖令の背後には占領当局の指示が存在していた。金太基は占領当局が強硬な態度に出た背景として、活動家養成学校である三一政治学院や八一五政治学院での「在日朝鮮人共産主義教育を占領当局が憂慮し、阻止すべきであると考えていたこと」をあげている。SCAP(連合国最高司令官)は1947年11月、第8軍に対して、朝鮮人学校に教育基本法・学校教育法を適用する権限をもっており、また文部省がその方針を明確に提示すべきだと回答した。48年の学校閉鎖令は、こうした「日米合作」のたまものであった。

 これに対して朝連は反対運動を繰り広げるが、当局は閉鎖を強行、4月23日には明け渡しを拒否しつづけていた西神戸、東神戸、灘の3つの朝連初等学院に対し MP(憲兵)と警官隊を動員して学校閉鎖を強行した*1。


 こうした占領当局、及び日本政府による弾圧に対する朝鮮人たちの戦いは、「阪神教育闘争」と呼ばれています。なお、日本の警察はこのとき16歳の朝鮮人少年をピストルで撃ち殺しました。その亡骸を踏みつけて日本学校は今存在している。

 また、学校教育法が定める「学校」の地位を与えられるためには、文部科学省の検閲した教科書を使い、また教育指導要領に従うことを押し付けられます。したがって、今の制度の下では、朝鮮学校は「学校」としての地位を得ようとするなら民族教育を捨てるしかないし、民族教育を続けようとすれば「各種学校」の地位に甘んじるよりほかありません*2。

 このようにいわゆるフツーの日本の学校は、朝鮮人をはじめとした民族的マイノリティの自律的/自立的な教育の機会を奪い、暴力的に「日本人」を作るためのものとしてあったし、今もそうなのであって、その存在自体が根本的に悪です。

 日本学校を基準にして「日本学校と同じだから/同じでないから」という根拠で「無償化の対象に含める/含めない」を議論することは、日本人が朝鮮人たちの教育を弾圧してきた歴史をなぞることに他ならない。日本人は朝鮮学校の生徒たちの「目が澄んでいる」ことを褒め称える暇があったら、日本学校の有り様を自ら批判的に問い直すべきでしょう。

 「国語教育」と称して日本語の読み書きを押し付け*3、「歴史教育」と称して日本人中心の歴史観を押し付ける。そうやって「日本人」への同化の圧力を日本に住む全ての人に――彼らが望むと望まざるとに関わらず――かけている。それが、文部科学省が学校教育法に基づいて「学校」と認めている、いわゆるフツーの日本の学校です。

 もし、「あるべき学校教育」というものがあるとするなら、それは日本政府の支配下にある日本学校ではなく、むしろ日本の敗戦後に朝鮮人たちが自分たちの言葉と誇りを自分たちの子供たちに伝えようと日本各地で始めた学校の試みの中に見出されるべきものではないでしょうか?

 お上の立てた方針に卑屈に従い、お上の検閲した教科書を使って授業をやるような、志も糞もない日本学校。そんなものと「同じ」であれと、朝鮮学校に要求するなど、笑止千万、自分のケツに付いたウンコ拭いて出直してこい!と、私は思わなくもありません。


 この度の高校無償化からの朝鮮学校排除の動きは、こうした歴史的な文脈を踏まえて理解すべきだと考えます。

まず、「日本人」以外の民族教育を踏みつけたところに日本の学校教育制度が打ち立てられているということ。そうして奪い取った教育のための資源を、恩着せがましく「与える」素振りを見せながら、結果的に「与えない」という選択肢を選んでみせる。

 つまり、泥棒が、人の財産を盗んでおきながら、図々しくも「これをお前に上げることもやぶさかではない」などと抜かし、しかも「やっぱあげるのやめた」と引っ込める、と。

 いや、それあんたが盗んだんであって、最初からあんたのものじゃないですから。

 そして、繰り返しますけど、「フツーの日本の学校」とは、人から盗んだ財産を基に築かれたものであるばかりではなく、マイノリティにマジョリティへのどうかを迫り民族教育の権利を奪い取る装置そのものなのです。

 結論を手短に言います。

 日本学校は「日本人」への同化を迫る暴力を止めろ。日本人が朝鮮学校のあり方を云々するのは――たとえ「生徒の目が澄んでいる」といった「評価」であれ*4――余計なお世話であり百年早い。