量子力学+生物の思考≒トンデモ

量子力学と生物の思考を直接結びつけた言説があったら、それだけでその言説はトンデモと疑ってよい。これが私の認識だ。

おおよそ生物の思考というのは生物学や医学を用いて具象が述べられ、それらは電磁気学で近似されがちな(生)化学や薬学などで述べられ、それらは原子レベルの物理学で述べられ、それを支えるものとしてやっと量子力学の微細な世界が見えてくる…というところであって、生物の思考は直接量子力学から説明しなければならない要素は恐らくこれからも見つからないだろうと思われる。

恐らく量子コンピューターは純粋に量子力学で得られた知見だけからデザインされたものと推察する。というのも重ね合わせの原理、観測と縮退、隠れた変数理論をほぼ否定したベルの不等式wikipedia:マクスウェルの悪魔の解決など、量子力学が登場するまでは全く理解しがたい現象が量子コンピューターの特徴を決定付けているからである。もし重ね合わせの原理を活かすアイデアが遥か昔から考察されてきた生物の思考からインスピレーションを得たものなら、シュレディンガーの猫に多数の人々が改めて興味を引かれたり誤った解釈が死屍累々と積み上がったりするわけがないだろう?

そしてそもそも生物の思考が並列的というのも怪しいものだ。もちろんある種、生物は並列的に情報を処理している。口笛を吹きつつキャベツを刻んだり、運転しながら一日の予定を考えたりすることはある。ただしそれでも二つ指摘する事がある。一つはある瞬間々々にメインに考えている事柄はひとつであることがほとんどだということ。つまり口笛を吹く動作は無意識にサブが自動的に行い、意識の方はほぼキャベツを刻むことに集中しているはずである。運転でもそれほど思考をかけなくても安全な一瞬を縫って予定を考え、交通トラブルの予感がしたら思考を運転に切り替えたりするだろう。考え事をして事故を起こしそうになったり、授業を聞き逃したりする体験は多いはずである。思考の並列性への過信は危険だ。

このような話では量子脳仮説を思い出す。プロトサイエンス・疑似科学などにおける意識-wikipedia:意識#.E3.83.97.E3.83.AD.E3.83.88.E3.82.B5.E3.82.A4.E3.82.A8.E3.83.B3.E3.82.B9.E3.83.BB.E7.96.91.E4.BC.BC.E7.A7.91.E5.AD.A6.E3.81.AA.E3.81.A9.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E6.84.8F.E8.AD.98のロジャーペンローズの項目を参照のこと。もともと自由意志の宿敵としてニュートン力学や因果論のひとつ結晶たるラプラスの悪魔が凄まじく嫌われていたこともあって、量子力学の登場は自由意志の拠り所にされやすいという背景がある。ありきたりな物語として「行動によって世界を変える」というのは量子力学の「観測によって事象が決定される」というニュートン力学の否定のメタファーと指摘できよう。人間の自由意志への渇望には凄まじいものがあるが、同時に自由意志を決定論から確率論に丸投げしたに過ぎず、非常に残酷な皮肉と紙一重である。

ところで量子とはなんであろう。量がひとつふたつと個数で数えられること、それでしかない。物理学における量子力学は「エネルギーや空間など連続と思われがちな量がひとつふたつと個数で数えられるほど微小な世界を扱う学問」という意味であり、言語学における量子母音は「連続的で無数にある発音をひとつふたつと幾つかの個数に分類して考えよう」ということであろう。もしかしたら量子母音は量子力学に影響を受けた言葉かもしれないが、それ以上の意味があるとはちょっと思えない。

量子力学をきちんと捉えるのは専門家でも難しく、文章化による解釈に至っては未だに成功していないように見える。それだけに様々な人の想像を甚く刺激するのであろう。

http://q.hatena.ne.jp/1233301985